1755年9月4日、スウェーデンでハンス=アクセル・フォン・フェルセンは誕生しました。
王家に次ぐ名門貴族、フェルセン家の長男として、ハンス=アクセルの前途には輝かしい未来が待ち受けていたはずですが、ヨーロッパ遊学の最後に訪れたフランスで、彼の人生は大きく変わってしまいます。
運命の人マリー=アントワネットはフランス王太子妃。1774年にはフランス王妃になる女性でした。
パリ・オペラ座の仮面舞踏会で二人は恋に落ちたといわれていますが、フェルセンはフランス到着後、すぐにヴェルサイユの宮廷に伺候しています。
フェルセン伯爵がアントワネットに近づいたのは、グスタフ3世の対フランス政策の情報収集が目的だったともされています。
しかし、フェルセンは縁談を全て断り、アントワネットのために生きる騎士となるのです。
アメリカ独立戦争従軍、グスタフ3世のヨーロッパ周航などフランスを離れることもあったフェルセンですが、心は常にヴェルサイユのアントワネットに寄り添っていたでしょう。
革命勃発後もフェルセンはフランスにとどまります。
ヴァレンヌ逃亡失敗の後に王家がタンプル等に幽閉されると、絶対王政を敷き反革命のグスタフ3世と共に王家救出に奔走しますが、グスタフ3世が暗殺されるとスウェーデンはフランスに関わることがなくなり、フェルセンも失脚しました。
アントワネットの処刑後、フランスとの人質交換でオーストリア宮廷に引き取られたアントワネットの娘マリー=テレーズのために、アントワネットが分散して残した宝石などの遺品を探し集めます。
それらは当初、オーストリア皇帝フランツ1世が所持しましたが、マリー=テレーズの持参金とするようフェルセンが皇帝に申し述べたといいます。
1810年6月20日、スウェーデン王太子カール・アウグスト暗殺の嫌疑をかけられたフェルセンは暴徒と化した民衆に惨殺されました。
享年54。
遺体は全裸で溝に投げ捨てられ、フェルセンに反感を持つ近衛隊も暴動を制止しなかったそうです。
王妃を愛した騎士の無惨な最期でした。
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