ナポレオン2世という名で知られている、ライヒシュタット公爵フランツ。
1811年3月20日に誕生した時は、ローマ王ナポレオン=フランソワ皇子として、フランスの未来の皇帝の地位を約束されていたはずでした。
ナポレオン=フランソワの運命が変わったのは、父ナポレオン・ボナパルトが1812年にロシア遠征で大敗を喫し、その後リュッツェンの戦い、パウツェンの戦いで勝利したものの、ライプツィヒの戦いの大敗を受けてのことです。1814年にパリ開城の後、ナポレオン・ボナパルトはエルバ島に流刑となり、ナポレオン=フランソワと母マリー=ルイーズはパリを脱出し、マリー=ルイーズの祖国、オーストリアの保護を受けることになりました。
ナポレオン1世のヨーロッパ支配の爪痕は深く、ウィーン会議(1814年9月1日~1815年6月9日)で各国の均衡を図るにも、一度崩壊したヨーロッパの国境を定めるにも、時間が必要で「会議は踊る されど進まず」と言われるほどでした。
ウィーン会議開会中にエルバ島を脱出したナポレオン・ボナパルトはフランスに帰還。世に言う百日天下の後、ついにセント・ヘレナ島に流刑となります。
ナポレオンの子であることは誘拐や暗殺の危険にさらされている事でもあり、ナポレオンという名前がヨーロッパ各国にとって敵のようなもの。ローマ王ナポレオン=フランソワは、ウィーンでは称号もなくフランツと呼ばれていました。
ウィーンに留め置かれたナポレオン=フランソワと、母マリー=ルイーズにも別れの時がやってきます。パルマ公国女公となった母はパルマ公国に行き、再会するのは2年後になります。
ライヒシュタット公爵の称号は、パルマ公国が一代限りでフランツに継承されないと知ったマリー=ルイーズのたっての願いが叶ったものです。大叔父ライナー大公の領地の提供と名称の提案により、4歳の当主の公爵家が創設されました。
ライヒシュタット公爵フランツとなった少年は、生き別れた父ナポレオン・ボナパルトを忘れることなく敬い、数年に一度しかウィーンに戻らない母を恋しがる寂しい少年期を過ごします。
12歳で結核の初期症状が現れますが、父のような軍人を目指し、17歳でチロル狙撃連隊大尉を拝命してからは、21歳で亡くなるまで軍務に励みました。
ナポレオン・ボナパルトの直系であるフランツは、オーストリア皇帝フランツ1世の孫でありながら、オーストリアにとってフランスの人質のような存在であり、いつまでもヨーロッパ各国にとってナポレオンの影が付きまとう不安をかきたてる存在です。1831年にハンガリー第六十連隊大隊長を拝命していますが、フランツがオーストリアを出ることはできません。一生を籠の鳥として生きるしか無かったのです。
ライヒシュタット公爵フランツは、1832年7月22日、逝去しました。
亡くなる前日には、フランツの死後にはライヒシュタット公爵家の閉鎖と称号の消滅が決められています。
美貌に恵まれ、才能にあふれた皇子の短く寂しい生涯でした。
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